イベント詳細情報

第5回HT東京・羽村スタディ・グループ

 開催日時
2018年11月03日 13:10〜2018年11月03日 16:30
レポート/感想

第5回報告書

天気:快晴。  
総参加数:11名(内1人遅れて参加)。

今月のテーマ:「愛について」。
1.自己紹介:名前、居住地、出身地、趣味、自分から見た自分とはどんな人、そんな自分をどう思いますか?
Aさん:この勉強会には2回目の参加となります。趣味として、昔からスピリチュアルな事柄を探求しています。また私は以前より、「アセンション情報実践研究会」を月一回のペースで開催しています。

 自分から見た自分についてです。私は出来るだけ感情に溺れないように、つとめて客観的にかつ哲学的に物事を捉えるように、日頃から注意を払っています。

Bさん:この会には結構長く参加しています。趣味はスピリチュアルな教えを学ぶ事です。意見を交換したり分かち合う中で、自分の疑問が解けたりすると喜びを感じます。

  自分から見た自分についてです。私は意見の対立や自分の理解が届かない内容を論破されると、ついむきになったり感情的になって反論する傾向にあります。言い換えると、出来事に対して直ぐに反応してしまう自分がいて、そのような自分をあまり好きではありません。

Cさん: 久しぶりの参加です。私自身も「神対」の勉強会を月1回のペースで開いています。趣味は車で日本全国の海岸沿いを中心に旅する事でしたが、一応、日本一周をほぼ完走しました。そこで今は歴史的視点を基に、全国を車で回る体験を楽しんでいます。

 自分から見た自分についてです。「神対」に出合うまでは、ほぼ無意識に生きていました。この世の生活を優先してきました。約20年前、「神対」に出合ってその内容に衝撃を受け、何回も何回も読み返し理解を深める事で、今まで見えなかった多くの気付きがあり、心が広がり人生を意図的に生きるようになりました。今は、自分のレベルにあった状態で少しずつ成長していると思っています。そして、私はこんな自分自身が大好きです。この事に違和感はありません。また私は全て肯定派で、結構いろんなタイプの人を受け入れられると考えています。ただ他の人が誰かを非難していると、自分自身が傷ついてしまうところがあります。

Dさん: 2回目の参加になります。自分から見た自分についてです。私は小さい頃、母親に厳しく育てられました。そんな私は若い頃、結構自分自身が苦労してきたと思い込んでいました。大人になり結婚し現在子供が3人いますが、愛情をもって育てた思いがありません。むしろ義務感で育ててきました。また私には孫が2人いて、世間では孫が出来たら可愛いと言いますが、あまり愛情を注げません。先日も娘と孫と一緒にレストランに出かけましたが、彼らは席を立ったり動いたりと落ち着きがなく、ついつい注意したくなります。このように、私は子供の頃より愛が足りない人間ではないのか、という疑問や不安をずっと抱えて育ちました。

 その後、年を重ね、いろんな経験を積み、様々なスピリチュアルな教えを学ぶ事で、今は人生を楽に生きれるようになってきました。そのような状態になった大きな要因の一つは、人生は自分自身の物事の見方・取り方・視点によって、世界が明るくなったり暗くなったりする、という事に気付いた事です。これは、私にとって大きな転換・変化・成長でした。私は、現在のこのような自分自身が大好きです。そして今回のテーマが「愛について」なので非常に興味を持って参加しました。

Eさん:ウクレレが奏でる音が好きで、最近趣味として始めました。自分から見た自分についてです。私もCさんと同じで、10代の頃は意識的に生きてこなくて、当時の社会の流れのままに過ごしてきました。その後、バシャールや「神対」に出合い、心がイキイキワクワクする事や自分の内なる声に従って生きれば豊かな人生を創っていける、という考えに出合い感動しました。そこで私も初めて自分の好きな事をして生きようと決心し、山を開墾し農的な暮らしを始めました。その間、畑を耕したり果樹木を植えたりと、無我夢中になり凄く楽しく有意義な日々を過ごしました。そして現在は大きな一つの仕事をやり切った感があり、次の人生の移行期に入ろうとしています。ただ今は充実感があり、自分自身“よくやったなー”という満足感に満ちた状態でいます。

Fさん:自分から見た自分についてです。私はひつじ年で、元々は大人しい人間だと思います。また私は人を信じるタイプです。ところで一方、反骨精神も旺盛で、“これはおかしいんじゃないかな”と思ったら黙っていられない性格でもあります。基本的に人間が好きで、観察するのが好きです。そしてこんな自分の事が好きです。

Gさん:趣味は特にないような気がします。この勉強会のようなスピリチュアルな会に参加する事で、何か人生のヒントになるものを得られればいいなと考えています。自分は無口な人間で、考え過ぎるところがあります。その部分はあまり良くないのではないか、と考えています。

Hさん:「神対」に出合って約20年、この勉強会とのお付き合いも10年近くになります。私自身も、意識をテーマにした独自の勉強会を月一回ペースで開いています。

  自分から見た自分についてです。私は、人としての可能性を大事にしたい人間だなと思います。私達の内に在る無限の可能性を100%開発したい、試したい、大切にしたい。そして私と関わる人達にも、その可能性を最大限発揮して頂く事をお勧めする人間です。この方向が、結果的に私達の魂の進化及びアセンションに繋がっていくと確信しています。

Iさん:私には、少なくとも二つの確信している事があります。一つは、宇宙は(神)多様性を好み、一人ひとりがみんな違う世界を見ている事。言い換えると、一人ひとりが多種多様な宇宙を見て、共同創造している事です。もう一つは、地球で生じている全ての問題の解決の鍵は、「アセンション」にあると思っています。

自分から見た自分についてです。私は意識の探求が楽しくて、広大な宇宙に思いを寄せるのが大好きな人間です。また素朴さ、純粋さ、素直さ等を大切にする人間です。ところで私は、性格的に少し極端な傾向があります。例えばネットサーフィンを始めると直ぐ夢中になり、気が付くとあっという間に8H〜12H間が過ぎ去ってしまいます。食事も、食べたくない時はほとんど何も口にしません。逆に食べたい欲求が湧くと、ついつい食べ過ぎてしまいます。また私は人に何かを説明する時、言葉が足りなく時々誤解されます。ひどい時には、私が意味する事とは真逆に取られる事もあります。でも私はこんな自分の事が大好きで、自分のような人と友達になり、自分のような人と付き合いたい、と考えています。でも残念ながらそんな人がいない事は知っています。
野川:自分から見た自分について、以下に列記します。

@ 私は時々思い込みと、人を疑う傾向があります。先日、歯医者に出かけた時、この事を明らかにする出来事が起きました。昼頃、1人用の椅子が20席程長方形に配置されている待合室は、沢山の患者で混んでいました。私は空いている椅子に座り、カバンから本とペンケース取り出して中からボールペンを取り、そのペンケースを座った椅子の隙間に置きました。その後2〜3箇所椅子を変わり、約1時間後、お客が4〜5人に減った頃、ペンケースを失くした事に気付きました。慌てて置き忘れたと思った椅子を調べてみたけど見当たりませんでした。そこで少し落ち着いて、私の行動を振り返ってみました。確かにペンケース取り出した記憶がありました。そこで再度見渡してみましたがやはりなく、受付にも届け出がありませんでした。その時、“あれ、誰か私のペンケースを持って行ったのかな?”と人を疑いました。

その後歯の治療を受け待合室に戻った時には、誰もいませんでした。念のため座席をざあっと見渡すと、1つの椅子の端っこに私のペンケースが置き去りになっているのに目が止まりました。“あの椅子に置き忘れたと”思った私の記憶は間違いで、単に私の思い込みでした。このような反省から、次回、同じような出来事が生じたら“丁度欲しい人にわたって良かった”ぐらいの大らかな気持ちでいようと思いました。

A 私は結構忍耐強く、継続性のあるタイプだと思います。20歳頃からあるきっかけで始めた朝の腕立て伏せ、腹筋、そして軽い柔軟体操を現在もずっと続けています。私は好きな事をやり始めると、長くやり続ける事が出来る性格のようです。現在「神対」が単に大好きなだけでなく、本当の自分を探求するのに最も見つけやすい道なので、多分私のライフワークになると思います。また私の理想があります。それは素直である事、正直である事、そして誠実に接する事です。これを「神対」同様、大切に思い育て続けていきたいと考えています。

B 私は行動的なタイプです。一日家に居るのは苦手です。気持ちが滅入るので、1回は外の空気を吸いに出かけます。雨が降っても雪が積もっても出かけます。例え足が折れても、いや、足が折れたら痛いので出かけません(笑)。

C 私は人見知りしないタイプです。外に出るのが好きで、いろんな場所に出かけます。新しい出会いが好きで、人との交流も好きです。

D 私は良く考えるタイプです。五感に基づいた思考ではなく、「私は何者か」について、自分で引き寄せる出来事を通してあれこれと考えます。そして決断する時は、静かな場所に行きさらに熟考します。その時、直感や閃きがあるとそちらに譲ります。直感は私の魂、あるいは神からの直接のメッセージと理解しています。

E 私は反省するタイプです。意見交換をしている時つい独断的になったり、テレビを見たり人の言動を見てる時、“あんなことをしたらまずいんではないか”と批判したり判断している自分がいます。出来る限りあるがままに物事を見る、あるいは観察する姿勢を培いたい、と自分自身を振り返ります。

F 以上の@〜Eまで、私は自分の事が大好きなタイプです。

2.今月のテーマ:「愛について」を読み終わった後の感想。

Aさん:私は神(=愛)という存在を、「一なる至高の創造的知性」と定義しています。この資料で説明された愛という概念は、この知性が全て展開されていて、愛の在り方を示している以外の何ものでもないと思いました。

Hさん:先程の自己紹介で、私は100%の可能性を大事にする人間とお話ししました。今この資料を読んで、私が感じる100%の可能性という事は、100%の自由に置き換えてもいいと思いました。そしてその100%の可能性、あるいは自由を、私達一人ひとりがお互いを認め尊重し発揮していく事が、即、私達一人ひとりの魂の進化に直接繋がっていく、と強く感じました。

Iさん:私もHさんと同様に、愛とは即ち自由、という事を強く感じました。昔、聖書を勉強していた頃、愛について沢山記述された文面に触れました。例えば愛とはむさぼらず、妬まず、嫉妬せず…等々。今この資料でも、愛について様々な表現で説明されています。例えば愛とは自由で、無条件で、無制限で、何も必要としない…等々。ところで、今私にとって一番しっくりくる愛の表現が、アシュタール(進化した存在の一人)の愛についてです。以下に、彼から私達に送られてきたメッセージの内容を、みなさんと共有したいと思います。

“愛とは、尊敬と感謝のエネルギーなのです。愛とは、何かをしてあげる事でも自己犠牲をする事でもありません。あなたを含め、全ての存在を尊敬し、そこに存在してくれる事に感謝する事です。感謝し尊敬する事とは、相手に干渉しない。その存在の思いや思考を尊重するからです。その存在が何をしようと、それは自由だと思えるからです。…無条件の愛、それは差し出す愛、自己犠牲での愛ではありません。無条件の愛とは、絶対幸福の中の愛なのです。ただ尊敬と感謝なのです。…”(詳細は、「アシュタールからのメッセージ、愛とは?」で検索…野川)
Cさん:私もAさんの感想に賛成で、それは愛の在り方を表現していると思います。私の意識がこの地球にあり、ここで物質的な体験をしている。それは、同様に他の人達も同じ体験をしている。その事自体が愛なんだと思います。つまり、私のしている事は何が起こっていても、それは愛の表現だと思っているし、他の全ての人もそれぞれの方法で、愛を表現し体験し感じ、そして分かち合いながら進化していると思います。

 もし愛を定義すれば、私の場合「ラムサ」の言葉を引用します。それは「糊」です。その意味は、存在するあらゆる生命体を結びつけるエネルギー、意図、つまり神だと理解しています。

Eさん:無条件の愛に関する感想です。先程、Iさんが共有してくれた尊敬と感謝のエネルギーが愛の表現であるという事に絡めて、私は地球が存続してくれている事、空気がある事、水がある事等は本当に純粋に感謝出来るし、愛が自分の内側に在ると思います。

ところで、では友達に対してどうかなと考えていました。例えば、自分は友達に親切にしているのに、逆に意地悪をされてしまう。それでもその友達を純粋に愛せるか?また一番近い存在のパートナーに対して、自分としては考えられる限りの楽しい時間や心地良い雰囲気を創っても、その相手から何も返ってくるものがなかった時、自分はどういう愛を表現出来るだろうか?実は一番近くにいるパートナーを愛していると思ったけど、一番見返りを求めているかも知れない。それは例えば所有欲、嫉妬、執着とか、それこそ愛とは違うまがいものを自分は持っていないだろうか、と違う視点から自分を振り返っていました。

Cさん:Eさんの感想に対する私の意見です。実生活を過ごす中で、個々人には個々人の意識レベルがあり、全員が進化していく途中の道を歩いています。だから100%の愛を考える必要はないと考えています。また、大切なパートナーともめたり口論する事も当然あります。でもそれは深い愛がないからではないと思います。私の実生活を振り返っても、目指す理想の愛の在り方を見つめれば、まだまだクリアーすべき課題は正直あります。でもその中で私が焦点を当てているところは、考え方の違い等の出来事を通して、少しずつ自分の意識を上げていく事、一つひとつ気付いていく事、その成長していくプロセスが最も大切だと考えています。だから反省も大事ですが、自分に対する寛容さ、受け入れ、愛も大切だと思っています。

野川:今のCさんの意見に賛成です。無条件の愛とは、相手からの見返りを何も求めない感情。つまりこの手元の資料は、愛の在り方や行為について説明しています。そして、それが本当の私達の愛なのだ、と教えてくれています。でも実際に私達は異なった環境で育ち違う教育を受ければ、考えや意見の相違が生じるのは当然です。ましてそんな二人が同じ屋根の下で一緒に暮らすとなると、ある程度の衝突は避けられません。そこでもし私がEさんなら、相手を無条件に受け入れられない今の自分を受け入れます。それより相違があるからこそ、そこに大きな気付きが隠れている、と私の見方を変えます。私達はもっと大きく深い愛、そして全てを包み込むような寛大な愛がある事を知っています。だからそれが出来ない自分を卑下したり非難するのではなく、さらに大きな愛を表現し感じられるように、自分自身の内に向かって挑戦します。出来事の目的は、その全てが何らかの気付きを私達に与えてくれます。そこで、何回でも何回でもより高い自分、広い自分、高貴な自分の体験を目指します。このプロセスを最も大切にしたいと考えています。その延長線上に、望む自分、本当の自分、つまり神に近づいていく道が開けてくるのではないでしょうか。

Dさん:人間関係で何か問題が生じた場合、この原因を創ったのは自分のエゴかな、と自分自身の言動を振り返ります。すると、そこに気付きがあります。相手の立場になって、つまり相手の中に自分が入って、相手から見た自分と対応してみる。すると、“ああ、やっぱりこれは自分のエゴだったんだ”と分かります。そういう作業を一つひとつ受け止め分かっていく事が、本当の意味での愛に近づいていくのかなと考えています。

Hさん:私も、先程のプロセスが大切だと考えています。今私達が住んでいる地球は、対極の世界、あるいは二極性の世界です。この中で、本当の姿である愛、優しさ、思いやり等の実在する感情を体験する為に、その対極の感情を一時的あるいは幻想として経験しています。何故なら、その対極の要素がないと、本当の自分の感情を実感出来ないからです。私達は本当の自分に成りゆくプロセスを歩んでいます。だから例えば嫉妬したり、要求したり、所有したりした時、その感情に捕らわれない事。仮の一時的な対極を経験している事に気付いている事です。そしてそのプロセスの目的を知っていれば、私達はいつでも本当の姿に戻っていけると考えています。

Fさん:「愛とは感情の総和だ」という文章が心に響きました。逆説で、愛とは美しくて、優しくて、寛容で、完璧でというと、私には何か薄っぺらさが感じられます。この世では全てに表と裏があるように、肯定と否定の感情の両面がセットとなり、その両方を体験しないと一番大切な部分が分からないと思います。片面だけでなく、両面を体験するという意味で、愛とは感情の総和だという説明は、すごく奥ゆかしいと感じました。神様は素晴らしいと思いました。

Aさん:私にとっての「愛とは感情の総和だ」とは、一なる至高の創造的知性(神)が全てを表現し展開している、という意味に捉えています。言い換えると、この知性が主体(私達)と客体(神)に分かれ、その主体である私達が、物事を認識し創造し展開していく。この展開の在り方が、愛であり神だと理解しています。その意味で、この愛とは感情の総和だ、という言い方が成立すると思います。私はこのような解釈が一番すっきりします。

Cさん:私も「愛とは感情の総和だ」という文章は大好きで、とても心に響きます。全ての感情を体験するまでは、私達は深い愛を体験する事にはならないんだなと思います。私達は今ここで、そのプロセスを行っている最中にある。一方、日常生活においては、怒りや憎しみ、嫉妬や妬み等の感情が生じてくる。その時々において、意図的に意識を内側に向けて、今どんな感情を抱いているかを感じてみる、そして味わってみる。何故なら、感情は嘘をつかないから。そしてその感情が本当の私を上手く表現しているだろうか、と振り返ってみる。神は私達に愛の在り方を提示し、ある一定の方向を道標として示唆してくれている。だから、このような考え方や見方で出来事を捉えていけば、望む自分、在りたい自分に近づいていけるのだなと思います。その意味で、この愛の文章は私の中ではとてもすっきりします。

Dさん:私は、人生は自分の思いや感情という波動あるいは波長を全て細かくする為の経験だ、と思っています。例えば以前、世間を驚かせたオーム事件です。これは一つの見方ですが、麻原さんは、一人の教祖、一つの教義、排他主義等、いわゆる宗教の恐ろしさを社会を震撼させる事で、充分に私達に示したと思います。その意味では、彼は厳しい人生を背負って生まれてきた、凄い魂だなと思います。勿論、これはこの場だけの発言です。一方、安倍首相の事を私は否定的に見ていた時期もあったのですが、考えてみれば国の舵取りをして下さっていて、それなりの強い責任と行動を背負っておられる、凄い魂だと思います。私達は一人ひとりがそれぞれの役割を持ってこの世に生まれ演じているわけで、そこに良い悪い、正しい間違いは全てないと心から思います。

3.今月のテーマ:「愛について」の質疑応答。

“愛はすべてを担(ニナ)い、すべてを知り、すべてに耐え、すべてを抱きしめるが、何も赦さない。何も、誰も、赦される必要がない事を知っているから。愛は、終わりがない(「神との友情・下」P.214)。”
■ 質問1(Iさん):上記文で、愛は誰も何も赦さない…赦される必要がない、と記述しています。しかしカウンセリングやセラピーでは、まず相手を赦しなさい、赦す事によって、自分自身が楽になると教えています。皆さんはこの違いをどう説明されますか?
Dさん:実は私は若い頃は、この現実の社会が全てだ、この目に見える世の中が全てだと思っていました。その後様々の経験を積み、生命は永遠で、望めば人生は何回でもやり直しのチャンスがあるという事を理解しました。でも、この目に見える領域だけが唯一の現実の世界だと信じている人達とっては、やはり赦しが必要だと思います。一方、高い意識の人達、あるいは大きな視点に立っている人達にとっては、赦しは必要ないだけでなく、赦す相手もいない事に気付いているでしょう。結局は見方の違い、視点の違い、意識の次元の違いだと思います(「小さな魂と太陽」に、赦しについてや、何故世の中には偶然はなく全て必然かについて、童話的に分かり易く説明されています…野川)。

Fさん:赦すという事は、自分を一番解放する事。また赦すという事は、“罪を憎んで人を憎まず”という事だと思います。例えばXさんがYさんに自分の財産を奪われたとしましょう。Xさんは憎いと思うでしょうが、その背景にはYさんをそうさせた何か理由があるはずです。その両者の因果関係を深く見つめていけば、相手にも非があれば自分にも非がある事が見えてきます。言い換えれば、お互いの言い分が成り立ちます。そこで大なり小なりの違いはあっても、最終的に相手を憎めないし、また憎んでもしようがない。そこで罪は憎むけど人は憎めないとなります。だから結局赦すとは、相手を赦せないと思った自分を赦す。そうする事で、自分を楽にする事だと思います。

“愛とは感情――憎しみ、怒り、情欲、嫉妬、羨望(センボウ)など――がない事ではなく、あらゆる感情の総和だ。あらゆるものの集合、すべてである(「神対」@、P.113)。”
■ 質問2(Iさん):上記文をそのまま解釈すれば、私達が考える否定の感情も愛の一部である、という事になるんでしょうか?
野川:否定の感情も肯定の感情も含めて、愛はその両者あるいは全てを包含するもの、だと理解しています。その理由は次の2つです。@究極の現実・神のエッセンス―本当の私達―の領域は、一元の世界、絶対的な愛の世界、分離のない世界で、そこには否定の要素はない。言い換えれば、二極の感情である愛と不安の内、不安から私達が創った否定の感情は全て幻想で、神のエッセンスの領域には存在しない。愛を経験する為に、神は、幻想として相対性・二極のシステムを、創りました。A究極の現実・神のエッセンス―本当の私達―の領域は、感情や思いの全てを体験したいという欲求があった。しかしこの領域は分離がなく全てが一つの状態で、私達がこの世で考える否定の概念は存在しない。その領域は、良い悪い、正しい間違い等を判断する場ではなく、単なる一つの体験の場。経験を楽しんでいる場。以上のように、究極の愛には否定の感情は存在しない。存在するのは、愛という体験、喜びという経験だと思います。

■ 質問3(Bさん):私達は体験する為に幻想として創られたこの物質界に生まれてきた、という話を聞いたのですが、それでは、また何故一つにならなければいけないのでしょうか?
Hさん:一つにならなければいけないのではなく、もうこの二極の体験を私達は充分してきたでしょう。だからこれからは、もう一つ上の段階、次なるステージに移行し、もっと自由で楽しく生きやすい世界を共に創っていきましょう。今地球はその方向へ流れが来ています。それが、アセンションだと思います。

Aさん+野川:私達の本性が一体だから。その本性の欲求に従っているだけだと思います。一体が自然な状態であり、それは即ち、私達の本当の在り方だから。それ故、私達は来た場所に戻ろうとしているだけだと思います。大きな宇宙の流れの一環だと思います。

“あなたが他者に対してする事はすべて、自分に対してしている。何故なら、あなたと他者は「ひとつ」だから(「神対」でB、P.286)。

■ 質問4(Gさん:)上記文で、あなたが他者に対してする事はすべて、自分に対してしているという教えに関してですが、私の場合これを受け入れると、自分を後回しにしてしまう傾向にあります。しかしそうではなく、自分も他者も同じように大切にするという事でしょうか?(Gさんは以前キリスト教を熱心に勉強された方。)
Cさん:今の Gさんの考えは、キリスト教の教えに基づく価値観を受け入れたもので、多分、自分の事より人の為に行ないなさい、という教えの影響を受けていると思います。ニールさんは敬虔なるクリスチャンで、上記メッセージは、他者を優先する教えに疑問を持ちそれを内なる神に問いかけた時に得た、一つの答えだと思います。私も聖書の勉強をしていた時期があり、教会では散々人の為に行いなさいと言われ続け、受け入れてきました。その考えが変わったのは、「神対」を読んでからです。今では、自分を大切に思う程に、他者を大切にする考えの方が、私には納得出来ます。

Hさん:自分の経験から感じている事ですが、何よりも人の為ばかりが頭にあると、知らない間に自分の事をないがしろにしてしまいます。自分の正直な気持ちが軽視されてきます。それは後々、苦い思い、例えば不満、愚痴、もっと酷くなると恨みに変わっていきます。そうなると、“折角あの人の為にやったのに何で感謝しないのか”、と逆恨みの感情が自分の心の中に湧き上がってきます。だからそうならない為に優先した方がいいのは、まず自分を大事にする事、それとまったく同じように大切な相手を尊重する事、自分と同等に相手を大事にする事です。それが、私達は一体だという証にもなる。それが、両者にとって良い結果を生む考えだと思います。

“愛が溢れる存在になりたいなら、人と一緒に愛が溢れる行動をするだろう。人の為ではなく、人と一緒に。この違いに注意しなさい。ニュアンスの違いを汲み取りなさい。自分の為に、人と一緒に愛が溢れる行動をする。それによってあなたは、本当の自分について抱く、最も偉大な考えを現実化し体験する(「神対」BP.287〜288)。”
野川:上記は、Gさんの質問に関連するメッセージの一部を抜粋した文章です。このように、自分を第一にするとか自分を大切に考えるという場合、この真の意味は、人の為でなく、人と一緒にする。自分の為に、人と一緒に愛が溢れる行動をする、という意味だと思います。ここで説明されている「」自分の為に、人と一緒に愛が溢れる行動をする」と言う時、そこには分離意識はなく、一体意識だと思います。、
Iさん:世間の常識や通念は、政治・経済・教育等多くの分野で、一部の支配者の都合のいいようにコントロールされています。その最たるものが聖書の中にあります。それは、“自分の命を犠牲にして、人の為に尽くすほどの愛はない”です。周知のように、聖書は一部の権力者により改ざんされたり、都合良く書き加えられたり、一部が省略されたりと、意図的な方向に捻じ曲げられています。簡単に言えば洗脳です。本当に自分を大切にし尊重し愛する事が出来れば、その思いが自然に周りに広がっていくでしょう。逆に、自分を自己犠牲にしていると、自分を見失ってしまう事に繋がるでしょう。

★ 以下は、今月のテーマ、「愛について」に関する「神対シリーズ」からの抜粋の要約と、野川、個人の意見です。

@ 愛とは感情――憎しみ、怒り、情欲、嫉妬、羨望(センボウ)など――がない事ではなく、あらゆる感情の総和(「神対」@P.113)。愛は肯定と否定の感情の両方を包含しますが、神のエッセンスの領域では、その感情を単に経験しているだけで、良い悪いの判断はないと思います。

A 愛の法とはどんなものですか?愛はすべてを与え、何も要求しない(「神対」AP.224)。

B わたしは、あなたの為に最高の善を選ぶが、それ以上に、あなたの意思を尊重する。これは、愛の最も確かな物差しだ。…愛は自らの為には何も望まない。ただ、愛する者の望みが実現するよう願うだけだ(「神対」BP.24)。

C 真の愛は自由で、愛の場に義務は存在し得ないからだ(「神対」BP.260)。

D 純粋な真の愛を、どう定義なさいますか? 誰にも被害を与えたり、傷つけようとしないものだ 。…愛とは無条件、無制限で、何も必要としない。何も見返りを要求しない。
何も必要としないから、自由に与えられるもの以外は、何も取らない。喜んで歓迎されるもの以外は、何も与えない。そして、愛は自由だ。自由こそ、神の存在のエッセンスであり、愛とは、表現された神だから。

  「愛は自由である」と言うのは、どういう意味ですか?  真の自分の、最も喜ばしい部分を表現する自由だ。すべてのもの、すべての人と一体である事を知っている部分だよ。あなたの存在の真実、あなたが一番熱心に真剣に表現したい、と思う部分だ。

 次の三つがあったら、真に人を愛する事が出来ない。それは@ 必要性。A 期待。B 嫉妬(「神との友情・上」P.185〜191)。

E 何かを与えてくれようとくれまいと、相手自身を愛するなら、その時は、本当に相手を愛している。何も必要としないなら、本当の愛だ(「神との友情・上」P.211)。

F 愛には、最も間違った行動さえも包み込む力がある。それだけではない。どんな行動でも「間違っている」とは言わない…愛は手放すが、必要だという思いはしがみつく。人が貧しい選択をしたと思う時こそ、愛を示してやりなさい。それが優しさというものだ。

神が全面的な愛であるのは、全面的に自由だからだ。全面的に自由だという事は、全面的な喜びに浸されているという事だ。…全面的な愛とは、しっかりと向き合い、意識する事、完全にオープンで、正直で、透明である事。心に溢れる愛を、しっかりと表現する事。(「友情・下」P.100)。

G 愛は忍耐強くて親切だ。愛は嫉妬せず自慢しない。愛は傲慢にも野蛮にもならない。愛は自分のやり方を主張しない。愛は苛々したり恨んだりしない。愛は間違った事を楽しんだりしない。間違った事も正しい事もないのを、知っているから(「友情・下」P.214)。

H 愛は自由を認め、不安は自由を奪う。愛は常に、あなたの真実を生きなさいと促す。それで、愛だとわかる(「神とひとつになること」P.105)。

I 愛は無条件だから、神の王国では誰も何も、特に優れてはいない。ランクもなければ階級もなく、人より特に愛される者もいない。…愛は測れない。愛は存在するかしないかであり、神の王国では常に存在する。何故なら、神は与え手ではなくて、愛そのものだから。…愛を得る為には、自分が愛であればいい(「神とひとつになること」P.137〜138)。 
J 一言で言えば、「神」とは「愛」だ。そして「自由」。一言で言えば、「神」とは自由だ。そして「喜び」。一言で言えば、「神」とは喜びだ。そして「平和」。一言で言えば、「神」とは平和だ。そして「一体化」。一言で言えば「神」とは一体化だ(「明日の神」P.166〜167)。つまり、神=愛=自由=喜び=平和=一体。

K あなた方の「存在が愛である」という経験だ。「愛」という言葉と「神」という言葉も、「生命」という言葉と「神」という言葉も、入れ替える事が出来る。(「明日の神」P.177)つまり、私達=愛=生命=神。 
<終わりに> 今回も,食事会兼分かち合い・フリートークを充分に楽しみました。野川
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神との対話表紙
2019-07-23
ほんとうに好きなことをして
暮らしているひとは、
何が何でもそうしたいと
こだわっているひとだ。
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