イベント詳細情報

第8回HT東京・羽村スタディ・グループ

 開催日時
2019年02月02日 13:10〜2019年02月02日 16:30
レポート/感想

<第8回報告書>平成31(2019年)年2月21日(2月2日開催)

天気:快晴。
  
総参加数:6名。

今月のテーマ:「人生の目的について」



1.自己紹介:名前、居住地、出身地、趣味、嘘をついた体験は、そしてその後の人生にどんな影響を与えましたか?


野川:結論から言うと“良心とはこういう感情なのか”に気付いた話です。
嘘をついたのは私が工業高校に通っていた3年生の春先の事。
当時の高校では、自動二輪の免許取得は校則違反でした。
しかし私は取りたくて乗りたくて仕方がなかった。
そこで試験の合格を目指し、無免許で運転練習する為、友達の先輩から既にバイク、HONDAの250CC、を安く譲ってもらっていた。
でも大きな問題があった。
両親が猛反対で、特に母親は話にならなかった。
曰く“学生の身分でバイクなど必要なし!”この時期親に反発していた事もあり、私はある日教習所にこっそり出かけ、試験日の申し込みを予約した。
もう一つ問題があった。
受験日は、どうしても学校を休まなければいけない。
そこで父の兄さんご夫婦が直ぐ近くに住んでいたので、その伯父さんに前もって事情を説明し、学校を欠席する電話を担任の先生にかけてくれる事をお願いし、快く引き受けてもらった。

当日は、温かく快晴だった。
私はいつもの時間に、母が作ってくれた弁当箱を入れた鞄を抱え、学校に行くふりをして元気よく出た。
そして途中で90度道を曲がって、伯父さんの家に隠れた。
待つ事約30分、両親が仕事に出かける様子を確認したので、伯父が学校に電話を入れ、私の担任の玉井先生とかけあってくれた。
“あっ、玉井先生ですか?私は野川仁志の父です。
いつもお世話になっております。
実は昨夜、息子が何か悪い物を食べてお腹を壊してしまい、今まだ寝ている状態です。
申し訳ないのですが、今日一日だけ休ましてもらうわけにはいかないでしょうか?”電話の向こうから、“分かりました。
仁志君に早く元気になるようにお伝え下さい。
” 伯父の電話対応は上手だった。
話し言葉に強弱をつけて感情移入し、役者にしてもおかしくないくらいの、見事な電話だった。
伯父に“助かりました。
有難うございます。
”と深々と頭を下げてお礼を述べた。

これで、休みの件は無事完了。
軽い足取りで空っぽの家に戻った。
朝日がいっぱい入り込む八畳の間で、朝刊を思いっきり広げて、まだ暖かい弁当を鞄から出し朝弁をした。
いつもの3倍くらい美味かった。
暫くした後、試験開始は11時だったので、バス停まで田舎道をゆっくり歩いた。
やがてバスが来て乗り、そして教習所前で降りた。

実地試験は思った以上に簡単だった。
何故なら、普段から無免許で小道や公道を走りまくっていたから。
だから多少の緊張はしても、余裕の試験だった。
無事終了し待合室でゆっくり座っていると、直ぐに合格の知らせが届いた。
“やった、念願の免許が取れた!”ウキウキ気分で自宅に帰って来た。
時刻は昼下がり、ポカポカ陽気に誘われて、10畳の部屋の真ん中で、両手を思いっきり広げて昼寝をした。

夢心地の中で、電話の音に目が覚めた。
出なければ良かったのに、習慣で思わず受話器を取ってしまった。
“はい、野川です。
”電話の向こうから少し聞きなれた男性の声で、“私は野川仁志君の担任の玉井ですが、本人はご在宅ですか?”突然私の名前を呼ばれ少しあわてて“あっ、はい、本人です。
”と口が滑ってしまった。
すると語調が変わり“お前、今日お腹壊して家で寝てたのか?”“はい、昨夜何か悪い物を食べたみたいで寝ていました。
”“おかしいな、お前今日教習所に行かなかったか?”“いいえ、お腹が痛くてずっと家で寝ていました。
”私はそ知らぬふりして、ばれるまでは嘘を突き通そうと思っていた。
するとさらに語調が荒々しくなり、“嘘をつくな!わしは今日お昼に教習所に行き、合格者のリストを見たらお前の名前があった。
”万事休す!ここまで明らかになったら正直に言うしかなかった。
“はい、今日免許を受けに教習所に行って来ました”と覚悟を決めて自白した。
この時心の中で、これで赦してくれるかもしれない、というかすかな希望があった。
しかし次の言葉でその儚い希望は吹っ飛んだ。
“お前、今から学校に来い!”
4時頃、学校の校門に着くと、沢山の生徒が帰宅の為校内から外に向かって歩いてきた。
私だけが皆と逆に校内に入って行かなければならず、その時、校門の端を通りながら、恥ずかしい思いをしたのを思い出します。
やがて職員室に呼ばれ、担任の机の横に立たされ、多くの先生に見つめられながら、先生の説教が長々と始まった。
最初は、周りの先生達の視線を背中に感じ恥ずかしくて、“説教早く終わんないかな”程度の軽い気持ちで聞いていた。
でも途中から先生も熱くなり“お前は普段からよく嘘をつくのか?”、“嘘をつく人生は楽しいか?”、“嘘をつくような人間になっては駄目だ!”と真剣さが私の内側に響いてきた。
すると心の奥の方で“本当に悪い事をしたな”、“嘘をつくような人間になってはいけないな”という思いが突然に湧き上がってきた。
さらに身体がそれに反応して、ブルブル震えだし、恥ずかしいけれど大きな声で“ヒックヒック”と泣きじゃくり始め、それが暫く止まらなかった。
この時、生まれて初めて良心の呵責という感情を強く感じた。

暫くして落ち着き自分自身に戻ってきた時、私の心の奥の方で“先生に嘘をついて申し訳なかったな”、“嘘をつきみんなに迷惑かけて悪かったな”、“正直に生きないと行けないな”という思いで胸が一杯になっていた。
“ああ、これが良心の声なんだ!”とはっきり自覚した出来事だった。

「神対」を知った今、この事を意味付けするなら、私の魂がこの出来事を引き寄せました。
何の為か?本当の自分を経験したいからです。
そして本当の私の大切な感情の一つ、“良心の声に耳を傾ける”が目的だったように思います。
この意味付けで私は充分納得出来ます。
それ以来、人が見ていようがいなかろうが、良心に従って嘘をつかない人生を歩もうと決心しました。
嘘をついた事は決して褒められる行為ではないけれど、そのお陰で、とても大切な事に気付いた貴重な体験でした。

Bさん:嘘に関して、今私が考えていた事です。
それは、自分が思っている事、あるいは考えてる事とは違う発言はするべきではなく、また行動すべきでもない、という事です。
私の場合,自分の本心でどう生きたいのか、また、したいかが大前提で、それを基準に置き、自分の意見を主張したいと思います。
でもその反面、主張しても意固地になり、意地の張り合いや口論になる等あまり建設的でない場合は―自分を100%表現するのがベストかも知れないが―無用な波風を立てたり争ったりするのを避ける為に、それに応じた対処も場合によってはOKかなと考えます。
ホワイト・ライ(嘘をついても誰も傷つけない…野川)も有りかなと思います。
ただ、私の場合、嘘をつくと直ぐに顔に出て相手にばれてしまうようです。

さて、自分についた嘘で、結果的に相手にも嘘をついた出来事を話します。
中学時代、同級生でとても良い印象を抱いた可愛い女の子がいました。
卒業式間近のある日、その女の子が私に近づいて来て、いきなりノートを差し出して“良かったらこのノートに書いて、後で私に返して下さい”と言いました。
突然の彼女の行動に、私は心の準備がまったく出来ていなく、ただ驚いて“えっ、えええ―、ごめん、ごめん、今ちょっと忙しから”と言い訳し、その場を離れてしまいました。
少し時間が経ち心が落ち着いてその事を振り返った時、彼女は勇気を出して、交換日記のような事を私としたかったのだと分かりました。
その事を考えると、彼女に取った私の行動が無性に悔しくなり“あ―、あの時素直に受け取れば私の人生は変わっていたかも!”と思いました。
照れ隠しで、自分に正直な心と裏腹の態度を見せてしまった事を、凄く後悔しました。
彼女はきっと私への好意が拒否されたと勘違いしたと思います。
申し訳ない気持ちと残念さの両方の感覚を思い出します。
私にはその時、正直な気持ちを表現する勇気がありませんでした。
「神対」などを勉強している今“自分に正直な程に、他者にも正直であれ”というフレーズが、いかに大切で貴重な教えかと、今改めて感じています(彼女との出来事は、ほろ苦くも、しかしとても美しい、誠実で純真な思い出話でした。
その純真さを、Bさんは現在も持たれていると思います…野川)。

Cさん:私は昔、キリスト教会員の時、普段の生活では酒もタバコも吸っていましたが、教会内では、酒もタバコもしていないと皆に嘘をつきました。
会員期間中、その嘘をつき続けましたが、正直な気持ち、私は特に自分が悪い事をしているという自覚はなかったです。
嘘をついているという後ろめたさよりも、別の意味で自分自身がきつかったです。
というのは、例えばレストランに行くと、まず教会員がいないかどうかを確認してから、タバコを吸いました。
このようにどこに行っても、いつも会員がいないかどうか必ずチェックしていました。
もし見つかったら教会を辞めなければいけなく、私は教会を離れたくなかったので、その事が一番怖かったです。
当時、教会を去ると自分を失う、という恐れがありました。

 数年前、一大決心して30年近く続けてきたキリスト教を辞め、自由な身になりました。
今は、教会のいろんな戒律から解放されて、気持ちが凄く楽です。
そして何故か自分では良く分からないのですが、不自由を感じていた時期はタバコを吸っていたのに、自由になった今は、特に苦労する事なくタバコも酒も止めました(ひょっとしたら酒やタバコは、教会でのある種の権力・戒律への、反抗のシンボルだったのかも知れませんね…野川)。

Dさん:高校時代、一年以上に渡って、本当の自分以外の自分を意図的に演じていた事を思い出します。
何故かというと、本当の自分を周りの学生に見られる事が恥ずかしくて、耐えられない感覚だったからです。

当時の私は、若さ特有の自意識過剰からか、周りの自分を見る目が気になりすぎ、馬鹿にされたり軽蔑されるような、否定的な事を噂されるのを極端に恐れていました。
多分、周りの生徒は普通の話をしているだけなのに、私は被害妄想が強くて周囲の言動に敏感すぎ、その為か人間関係も上手くいかず、かなり行きずまった状態でした。
そこである日、自分を守る為に、馬鹿を演じる事にしました。
そうする事で、周りから否定の目で見られなくなり、注目のマークからも外れました。
もし仮に馬鹿にされても、本当の自分に対してではないので、平気だし耐えられる自分がいました。

今は完全に立ち直れたとは言えないけれど、極度に人の視線を気にする感覚からは随分解放されて楽になり、比較的平気で落ち着いた自分がいます。
また普段から意識的に注意し、時々声に出して自分を落ち着かせる等して、改善している自分がいます。


2.今月のテーマ:「人生の目的について」を読み終わった後の質疑応答。


戦争に行き人を殺す事が自分の役に立つのなら、また、妊娠中絶をするのが自分の役に立つのなら、そうするだろう。
進化と共に変わるのは唯一つ、何が自分の役に立つと思うかだ。
そして、何が自分の役に立つと思うかは、何をしようと考えているかによって決まる(「神対B」P.308)。

Cさん:質問1.上記文で、役に立つとは具体的にはどういう事を言っているのでしょうか?例えば、私はこの勉強会に参加した。
それは自分の意識向上に役に立つから、と言えば直ぐ分かるのですが。
それと、「神対」のどこかで読んだと記憶しているのですが、“全ての事には意味がある”という事は、役に立たない事はない、という感じにも受け取れるのですが?
野川:まず後者の、全ての事には意味がある、についての私の考えです。
私も確かに文面どおりだと思います。
何らかの意味が必ずあると思います。
でもここでの質問は限定されていて、戦争に行き人を殺す事が自分の役に立つか否かです。
それについて考えていきましょう。

前者の、自分の役に立つかどうかを考える時、私はこの世界で何をしようとしているか、が大切な要素になる。
そして私が理解した「神対」では、“これは本当の私だろうか?”あるいは “私は何者か?”です。
何故なら、私の全ての思い・言葉・行動を基にした行為は、自分自身を規定する行為だからです。
言い換えれば、自分とはどんな人間か、です。
もっと具体的に言えば、優しい自分/冷たい自分か、思いやりのある自分/人を傷つける自分か、正直に生きる自分/嘘をつく自分か、です。
だから、本当の私とは何者か、が自分なりに分かっていれば、それを基に、何が役に立つか否かが分かってくると思います。
そこで私からの質問です。

野川:質問2.皆さんにとって、本当の私とはどんな感情や思いなんでしょうか?
Aさん:私は特に定義する必要はないと考えます。
難しく考え過ぎて混乱を招くより、単純に答えればいいと思います。
例えば目の前に2つの道があり、右を選べば自分の気持ちが楽だと思えば、それがその人にとって正しい道だと思います。
戦争に関して言えば、自分にとって何にも役に立たないと思います。
敵味方なく多くの人が殺し合い傷つきあい、家屋が焼かれ、家族がバラバラになり、町が破壊され、そして憎しみと深い悲しみが残るだけです。
悲惨な過去の歴史から学びきれない、愚かな人間の姿が映し出されるだけです。

Eさん:確かに何の結果にも繋がらない無意味な事は何もない、という文面がどこかに書かれていたのを私も思い出します。
という事は、戦争も必要悪と言えます。
この場にいる私達は戦争の体験はありませんが、でも過去の悲惨な戦争の事実を体験者や写真などで見聞きすると、“あー、戦争って恐ろしく醜く愚かな行為だ”と分かります。
だから私自身は、戦争は勿論反対です。
絶対嫌です。
でも一方で、過去の歴史を知る事で、戦争の無益さや愚かさが分かります。
逆に、平和ばかりだったら戦争が嫌だという事が分かりません。
そういう意味では、無駄なものは何もない、に繋がると思います。

Bさん:私にとって出来事が役に立つか否かの基準は、あくまでも今の自分にとって効果的か否か、が大きな判断基準になります。
私達はいろんな経験を通して、日々成長していきます。
だから同じ出来事に出合っても、例えば一年前と一年後の今とでは、反応がなり違ってくると思います。
何故なら、その間に意識が変化し進化しているからです。
このように多くの事を経験する事によって、いろんな気づきがあり理解が深まります。
その結果、私達は成長し向上していくものと思います。
だから今現在の自分の素直な気持ちと共に、本当は何をしたいのか、何を経験したいのかという思いに照らして、この出来事が役に立つか否かの視点で捉える事が大切だと考えます。
このプロセスで、魂が進化していくと考えています。

野川:戦争になれば、正しい/間違い、善/悪等の基準はなくなり、双方の正義の基に、殺すか殺されるかの世界に突入していくと思います。
私は人を殺したくないし殺されたくもない。
また、傷つけたくもないし傷つけられたくもない。
そんな人生を歩みたいとは思いません。
出来れば皆が仲良く暮らし、平和に協力して助け合い安全に暮らしたい。
そういう意味で、戦争は私にとって、まったく役に立ちません。
ここでもう一度、先々月勉強した“真の私達について”の要約を、少し思い出す為に下記に記述します(詳細は第6回報告書を参照)。

★ あなた方は善、慈悲、思いやり、理解、平和、喜び、光、赦し、忍耐、力、勇気、苦しい時の援助者、悲しい時の慰め手、傷付いた時の癒し手、迷った時の教師、最も深い知恵と真実、最も偉大な平和と愛だ。
あなた方はそういう者なのだ。
(「神対@」P.118)。

★ あなた方は物理的な存在ではなく、…自分が望んだ時に物理的な存在という形を取る事が出来る。
あなた方は純粋なエネルギー、創造の力、無限の智恵の源、無条件の愛だ。
つまり、あなた方は身体ではなく、身体を包み、身体を創り出したエッセンスであり、生命そのものであり、あるとき、あるやり方で存在として現れた、それはそうするのが楽しいからだ、という事だよ(「明日の神」P.205〜206)。

Cさん:本当の自分について、私は勘違いをしていたかも知れません。
先程の体験談で―私はバイクに乗るのが大好きなのでよく分かるのですが―野川少年がバイクに乗りたかった思いが、本当の自分だと思っていました。
でもそうではなく震えて泣いた少年が、本当の自分だと言われました(嘘をついたのが本当の自分ではなくて、内側から湧いてきた感情である良心の呵責により、正直な在り方が本当の自分だと気付いた…野川)。
仮に、バイクに乗ってよい高校だったら、嘘をつく必要もなく、大好きなバイクに乗る事が出来、そのバイクを好きな事が本当の自分だ、とも思えます。
その辺はどうでしょうか?
Aさん:バイクに乗りたかったという野川さんの気持ちも、本当の自分だと私は思います。
何故なら、そこからいろんな学びが生じてくると思うからです。
自分が何かをした事で―それはどんな事でも良いんですが―間違ったと思った時点で方向を変え、修正していけば良いと思います。
だから私は、極端に言えば、嘘でも何でも良いと思います。

 例えばあるミュージシャンが有名になって後にインタビューを受けた時、“最初の目的は何でしたか?”と聞かれ、“有名になって、女にもてたかった”と答える人が大勢います。
目的が少々不純でも、その後の経験を通して少しずつ自分が変化していく。
私はそのような生き方で良いと思います。
また、まれに一回の人生で悟りの域に達する人がいて、私はそんな人も受け入れます。
でもその反面、何回でも同じ失敗を繰り返す等、無知な人や愚かな人も大勢います。
例えばタバコを吸い過ぎれば肺がんになる。
これは、医学界でも既に実証済です。
そして人生には期限がある。
今だと平均的に80代で人間は死にます。
でも本人の自由で好きだからと言って、タバコを吸い続け家庭を泣かせ、かつ本人も苦しんで最後に死んでいく。
私はそんな生き方を人生だとは思えない。
無駄死にだし、無知だと思います。

Bさん:もし自動二輪の免許を取ってもよい高校だったら、誰に何の遠慮もなく、また嘘をつく事もなく取得出来たでしょう。
ただもしそうだったとしたら、野川さんの心が震えるよな真実の自分に気付く事はなかった、と私は思います。
私の想像ですが、野川さんの魂、あるいはハイヤーセルフは、その時に本当の自分に気付いて欲しいと思う、希望・欲求があった事でしょう。
その為に、そのような状況を創ったのではないかな、と思いました。

Eさん:野川さんの場合は、たまたまバイク事件だったけれど、それは違うものでもよかったと思います。
例えば、ある高級な楽器が欲しいと言って親に反対され、嘘を言って買ってしまったというように。
それから、先程のAさんの人生には限りがある、無知な人がいる、という事に関してですが、私は下記のような「神対」の教えを大切にしたいと考えています。

何が人生の浪費かを判断するのは、あなた方ではない。
70年間、何もせずに詩を考えていたあげく、何千人もの人々の理解と洞察の扉を開くようなソネットを、たった一つだけ生み出したとしたら、その人生は浪費だろうか?
 嘘をつき、騙し、何かをもくろみ、被害を与え、操り、他人を傷つけて人生を過ごした男が、その結果、本当の自分を――多分、生涯をかけて思い出そうとしていた何かを――思い出して、ついに新しいレベルに成長したとしたらどうか?この人生は「浪費」だろうか?
 他人の魂の旅を判定するのは、あなたの役割ではない。
あなたは、自分が何者であるかを決めるべきであって、他の誰かが何者であるか、あるいは何者でないかを判定する必要はない(「神対」AP.266)。

 私も普段、人を見て、この人は良い人悪い人、あるいは好きな人嫌いな人と判断してしまう自分がいるのに気が付きます。
でも上記の文書を読み肝に銘じた事ですが、私が判断を下すその人は、私と同じようにまだ旅の途中で学びの最中、あるいは本当の自分を思い出している最中でしょう。
その人に対して、非難したり判断してはいけないと強く思いました。
そうではなく、私自身の在り方にもっと意識を向けたいと思いました。

野川:Bさんの意見に賛成です。
「神対」によれば、出来事は、実は魂が引き寄せている、と教えています。
何故なら、魂は(神に最も近い感情、神の一部…野川)本当の自分をいつも経験したいという欲求を含んでいるからです。
大切な事は、出来事を通して私は何に気付くかです。
嘘をつき、免許を取り、担任に呼ばれ、職員室で説教を聞いた。
途中から、私の内側より“嘘をついて申し訳なかったな―”という、熱い思いが込み上げた。
そして身体が震え大声を出し泣いた。
結果、心の奥に在る、良心の呵責に思いが届いた。

 今の私なら、この出来事の意味がよく分かります。
つまりこの一連の流れは、私の魂が紛れもなく引き寄せて、内側に在る良心・神性に気付いて欲しいと願っていた事です。
最初、私の精神は“早く説教が終わればいいのに”と軽い気持ちで聞いていました。
やがてその意識が内側に向き、どこかで魂の意識と同調したのでしょう。
さらに身体の意識もそれに共鳴して震え、大声で泣く事で、良心の大切さを感じ取った。
それが、この出来事の目的だったという事です。
人に嘘をついても、自分に嘘を付けない事がはっきり分かり、それ以降、正直に生きる人生を目指そうと強く思いました。

 つまり、これが私にとっての教訓です。
神は私達に100%の選択の自由を与え、かつ善悪の判断を一切しない。
その状況下、私達は出来事を通して、100%の自由意思でどんな反応をしてもよい。
でも共通している事がある。
それは、その出来事からどんな感情や思いに私は気付いたか?何を深く感じたか?何に心が激しく動かされたか?さらにその気付きも、人それぞれに深みや重さや心の響きの違いがある。
この事を念頭に置き、人生で様々な体験を積み重ね、徐々に本当の私に近づいて行く、あるいは本当の自分を創造していく事を目指した生き方が大切な要素となる、という事です。

おまえは何者か、という問いにあなたは答える事になる。
その仕事は、たった一人でしなければならない。
報償もなく、認められもしない。
気付いてももらえないかも知れない。
どうしてそんな道へ、歩み出さなければならないのか?自己探求と創造の旅に出る事で、何が得られるのか?どんな理由でするのか。
その理由は、ばかばかしいほど簡単だ。
「他にはどうしようもないから」。
 それはどういう意味ですか?  つまりそのゲームしか行われていないからだ(「神対」@P.210〜211)。

野川:質問3.上記文面で、そのゲームとは、具体的にどんなゲームの事でしょうか?ところで、私達には100%の自由な選択権があるはずなのに、少なくとも2つの選択出来ない、一見矛盾した重要な項目がある、と私は考えています。

一つは、“神なしに生きる事も死ぬ事も不可能”しかし“神なしに生きて死ぬと思う事は可能”です(「神へ帰る」P.18)。
最初の文章に関して、私達の選択は不可、何故なら私達は神と一体だから。
これと同じような在り方が、“そのゲームしか行われていない”です。
これも、他の選択は不可です。

Dさん:それは、この資料に書かれているように“自己探求と創造の旅”だと思います(賛成です。
でも、もう少し具体的に意味を広げられないですか…野川)。

Bさん:私の言葉で平たく言うと、それは、気付きと経験を意識的に行なう旅です。
私達には沢山の自由な選択権があります。
例えばスポーツ、芸術、学問、経済等様々の分野から、自由に選んでいきますが、でもその目的は、気付きと経験の旅です。
そしてここで大切な事は、この2つの要素を日々無意識か、あるいは意識的に生きているかで、人生の深まりと広がりに決定的な違いが生じてくる事です。

野川:Bさんの意見に賛成です。
今度は、私の言葉で説明します。
このゲームとは、私は何者か?私とはどんな人間か?私はどんな望む人生を歩みたいのか?を、様々の出来事を引き寄せる事で経験し、感じ、気付いて意識を広げ探求していく。
このプロセスを何回も何回も繰り返し深めていく事で、いつの日か、私は愛と慈悲だ、という思いや感情に深く心が動き、魂が感動する。
そして最終的には、愛と慈悲そのものが自分になる。
そのようで在る自分、を創り上げていく事。
つまりゲームとは、そのような方向、あるいはプロセスしか人生では行われていないという事を、神様は私達に伝えているのではないかと私は理解しています。

Dさん:先程のBさんの意見で気付きと経験に関してですが、私には漠然とした目的で何か切羽詰まった強い目的というか目標を感じません。
例えば、野球で一年後に優勝を目指すと言えば、分かりやすい目標ですが。

Bさん:気付きと経験を意図的に行う事で、自分の生き方、あるいは魂の経験を創造する事、そのような旅だという事です。
魂の経験とは次のような意味です。
今までの私達の住む世界は、正しい/間違い、善/悪という二極性の限定された世界でいろんな経験を積んできました。
一方、いま宇宙の大きな流れの一環で、私達の世界はアセンション、次元上昇の時代に移行したと言われています。
つまり、二極の限定された次元の世界から、4次元、5次元、さらなる高次元に向かって、二極性を必要としない世界に上昇しています。
そして私達の意識の焦点をそこに合わせる事で、意識がより自由で活発になり、もっと拡大した経験、より深くて新しい経験を出来るチャンスが訪れています。
これからはそのような時代、そのような経験が出来るという、大宇宙からのお誘いだと考えています。

野川:具体的な目標についての私の意見です。
Bさんの言葉を引用すれば、気付きと経験を意識的に創造する事です。
そして、何を創造するかと言えば、源の心情である思いや感情、つまり神の欲求、一言でいえば、愛です。
無条件の愛、無制限の愛です。
これをもっと具体的に言えば、慈悲・喜び・生命・真実・自由・祈り・希望・思いやり・助け・協力・信頼・正直・誠実・力・勇気・優しさ・忍耐・赦し・繊細さ・慈しみ・平和・調和・平等・安心・健康・共感・理解・知恵・洞察・静寂・寛大等々です。
このような豊かな愛の感情を、出来事を通して意図的に表現し、感じ、それ自体になる事、愛で在る事です。
つまり単純に言えば、神になる事です。
それが、目的です。
何故なら、私達は神と一体だから。
それが、“私達は神に似せて神をかたどって創られた”という意味です。
つまり、私達は神の資質・能力・性質・特質を、全て内側に持っていると私は解釈しています。

次の文面を皆さんは何回も読んでいると思います。
それは“最も偉大なヴィジョンの、最も壮大なヴァージョン”です。
私にとりこの意味は、最も偉大な希望・展望の、最も壮大な神に成る事です。
イエスさんやお釈迦さんになる事、あるいは、それ以上に自分を最高に広げる事、進化・拡大する事です。
そして、実はこのゲームしか、私達の世界では行われていない、というように私は理解しています。

Eさん:今、野川さんの解釈を聞いて、私も“そうだ、神になる事だ!”と納得しました。
私は以前から先程の文面を何回も目にし、どんな意味かといろいろ想像していました。
しかし小さな自分がいて、私の思いが届かず、何を表現すればいいか分からない状態でした。
でも今話を聞いて、何か腑に落ちた感じがします。

人生の目的は、神を喜ばせる事ではない。
人生の目的は、自分とは何者であるかを知る事、自分を再創造する事なのだよ(「神対」AP.70)。

野川:質問4.上記文で、自分を再創造する事とは、具体的に何を再創造するのでしょうか?
Bさん:私的に表現してみます。
私達は、社会に出て間もない頃人生経験が浅く、通常、無自覚的に行動し何かを生み出します。
なんとなく創造してその結果、“あれ、こんなはずではなかったのに”という思いを抱く事が多いと思います。
このプロセスを幾度も繰り返し、様々な経験を積み重ね、スピリチュアルな会合に参加したり深い教えにも触れて、意識が広がっていきます。
するとある時、私達は根源と繋がっている、私達一人ひとりの意識が、実は全てを引き寄せ創造している、というメカニズムが分かってきます。
その理解が深まってくると、自分の意識に注意が向き、慎重になり、意図的に生きようと目覚め、自分の経験したい世界を創造していくプロセスに入って行きます。
それが、ここで言っている再創造、再び自己を創り上げていく、という意味に私は捉えています。

野川:私の意見です。
まず再創造だから、もともと私達は創造されていた、という事です。
それは、神と一体の私達です。
分離でなく、全てがひとつの状態です。
絶対的な愛であり純粋な思考の状態です。
そして再創造だから、神のエネルギーを活用しながら、個別化された私達は神からいったん離れ、記憶を忘れて、体験する為に、幻想として創造された物質界の一つ、地球に降りてきました。

 では、私達は具体的に、何を再創造しているのでしょうか?4点ほど思い浮かびます。
@ 私達の本体は、魂・精神・身体の三位一体のエネルギー体である。
身体は、神の欲求である偉大な知を体験し感じる為の仮の器です。
だから、身体が本当の自分だと捉えた価値観は、役に立ちません。
A 生命は永遠である。
私達は神が死なない限り、永久の存在です。
だから、社会通念の一つ、人生には限りがあるという価値観は、役に立ちません。
B 私達は進化・発展していく存在です。
その為に、私達が神のエネルギーを利用し、輪廻転生を創造し、神も同意されました。
だから身体の死は悲しみでなく喜び、次の旅立ちのほんの始まりにすぎません。
再創造のチャンスです。
つまり人生は、私達が望めば何回でもやり直し、修正が利くという事です。
ちなみにニールさんは、今生が648回目の転生です。
C 最後に、壮大なヴァージョンとして、私達は神を思い出す。
再び神に戻る。
つまり神と一体となる。
これが、私が考える再創造の意味です。

Eさん:今の話を聞いて、私達の人生は多くの生を繰り返して、段階的に自己を再創造していくプロセスだと理解しました。
その一方で、私はこの一回の人生の中でも、沢山の再創造が行われていると解釈しています。
例えば、昨日までの私が、何か一つ大切な事柄に今日気が付いたら、一つ進歩した自分に出会えます。
これと同じように、人生は何回でもやり直しが出来ると分かれば、仮に死ぬ直前に気付いても、決して遅くはないと思います。
つまり気付いた時が、その人にとっての飛躍の出発点に繋がると思いました。

Aさん:昔、キリスト教の牧師が、次のような内容を言った事を思い出します。
それは、さんざん人を殺し、傷つけ、暴君の限りを尽くしたある人が、死ぬ間際に“私は神様を信じます。
自分の罪を認めます”と告白しました。
すると牧師は“あなたは救われました。
”と告げたのです。
その時私は、その牧師と自分の考えとの間にあまりに違う隔たりを感じて、びっくりしたのを思い出します。
当時私は、日常生活を通して自分なりの善行をし、不純な思いが心に湧き上がるとその都度自分を戒め、修正を加え信仰心を深め、自分なりの正しい道を歩んできました。
そして人生の最後に、牧師を介して神に、自分の思いを正直に伝えればそれなりの救いがある、と信じていました。
でも前述の彼は、人の迷惑を顧みず自分勝手な生き方をし、周りの多くの人達を迫害しました。
その彼が、最後に自分自身を認め神を信じます、と言えば、それで全ての過去の過ちが赦される。
回心すれば救いの手が差し伸べられる。
真実に気付いて、自分に正直になれば救われる、という事でしょうか。
今の私は、まだその矛盾が心の中で引っ掛かって、消化出来てない状態です。


3.以下は、今月のテーマ「人生の目的について」に関する「神対シリーズ」からの抜粋の要約です。


地上でのあなた方の仕事は、自分が何者であるかを学ぶ事ではなく(既に知っているのだから)、思い出す事だ。
そして、他のみんなが何者であるかを思い出す事だ。
だから、他の人にもそれを気付かせる事、思い出すように仕向ける事も、大きな仕事だ(「神対」@P.47)。

あなたの人生は何の為に在ると思う。
…自分の人生が、魂の発達の為にあればいいと思います。
自分の中で最も愛する部分を表現し、経験する人生であればいいと思います。
人に共感し、忍耐し、与え、助けるという部分です。
知識があり、賢明で、優しく、そして…愛する部分です。
まるでこの本をもう読み終わったような答えだな(「神対」@P.152)。

この世この時間この場所に、あなたは自分を知る為に、こう在りたいと思う自分を創造する為にいる。
それが人生の目的だ。
人生はいつまでも続く再創造のプロセスだ。
あなたは自分が考える最高の自分のイメージに従って、自分を創り続けているのだよ(「神対」AP.40)。

あなたは全ての生――多くの生――を、本当の自分を決定する為に活用している。
あなたは永遠なる自己創造の中にいて、自己表現のプロセスを通じて、自分自身を実現している。

 あなたは人生で出会う人間や出来事、環境を道具として、自分の身に引き寄せている。
その道具を使って、最も偉大な自己、最も偉大なヴィジョンを創り上げるのだ。
この創造と再創造のプロセスは終わる事無く、多層的に進行する(「神対」AP.101~102)。

人生の目的は、自分について抱く最も偉大なヴィジョンの中でも、最も壮大なヴァージョンで自分自身を新たに創造する事だ。
真の自分を宣言してそうなる事、表現してそれを実現する事、経験して知る事だ。
(「神との友情・上」P.206)。


<終わりに>


今回も沢山の意見、質問、体験等の分かち合いを有難うございました。
野川