耐えられない軽さ

世界はもう、軽さに耐えられなくなっている。

表面をなぞるだけの会話、本心を偽り続ける関係、一時的と知りながらその場を凌ぐためにとり続ける行動。

ほんものではないもの、偽物と知りながらそこにしがみつき続ける状態には、ある種の軽さがあり、それは時として、心地良くさえあります。

それの状態に耐えられなくなった時が、人間的あるいは霊的な成熟が訪れるタイミングなのではないかと思います。

いま世の中は、ただただ本当のことだけを求めているのではないでしょうか。個人だけではなく、集合的に、偽物の軽さにしびれを切らしている、耐えられなくなっている。

スピリチュアリティとは、最も深い真実にまで到達しようとする意志である、と考えています。スピリチュアルと言って真っ先に思い浮かぶのは、霊能力や未来予知、占いや宇宙人、あるいはオーラが見える、などなど、現実離れしたことばかりというのが、今の日本の状況に感じます。それらを否定するつもりもないですし、それらもある意味では人生の一部、生命の一部として広く認められるべきことではあります。しかし、それがスピリチュアリティ/霊性の本質ではありません。

存在の根本的意味を自らの内側に求め続け、そこから汲み出した真実を、自らの生命を十分に使い現実に表すこと。それが霊性の本質であるように思います。その真実・本質とは、神と言ってもいい、愛でもいい、大宇宙でもいいのですが、現状のスピリチュアルにおいては、奇跡のコース的な文脈で言うところの「エゴ」が、最も深い真実の地位に取って代わり、跋扈しているように感じられる場面があります。人類が真の目覚めと変化を経験する前の、静けさの前の嵐ともいうべき状態にあるのかもしれません。

どのような道をとったとしても、神に至る(あるいは既に到着していることに気づく)ことにかわりはありません。私たちが選べるのは、神に至るかどうかではなく、痛みを伴った道をとるか、喜びに満ちた道をとるか、しかありません。

存在に関わる軽さがもたらす心地よさは、一時的な気楽さをもたらすことはあっても、本物の安らぎをもたらしてくれることはありません。一時的な気楽さは、いずれ痛みを伴った学びとして経験されます。それは個人であっても、社会であっても同様のことです。

ほんものに至るために必要なのは、特別な資格や、能力、資産ではありません。自分自身の最も奥深くの真実に到達する意志、そして、その真実を十分に生きようとする意志、それだけなのではないかと思います。

神の声とそれ以外を見分ける基準として、神との対話第1巻にはこの3つが挙げられていました。

喜び・真実・愛

見分ける知恵が与えられていることに、感謝します。

ワンネスを祝う

10月24日は、グローバルワンネスデーの日でした。Humanity’s Teamとしては、今年で10年目となります。

Humanity’s Teamの最も重要視する概念が、ワンネスです。

私たちはひとつであり、すべてはみなつながっていて、神から離れているものはなにもない。すべてがつながっているのなら、奪い合う必要もないし、競い合う必要もない。ただただお互いがお互いのためを思い、ただただお互いが生命を拡大し合うことを祝う。他者を傷つけるということは、自分を傷つけることであり、他者から奪うということは、自分が奪われるという認識の中に生きる。

今この瞬間に、全くそうは思えない世の中だと感じている方もいるかもしれません。

日々の生活が、終わりのない苦しみのように感じている方もいるかもしれません。

かつては自分自身もそんな思いの中で生きていました。生きている目的や意味を失い、自分自身が分離しているような感覚です。他者の掲げる理想が、きれいごとや偽善に見えること、更に言うと、自分自身が偽善に陥っているのではないかという感覚。自己の分離ほど、人生に病的な混乱を与えるものはないのではないかと思います。

「あなたが世界に望む変化に、あなた自身がなりなさい」

というガンジーの言葉があります。

Humanity’s Teamに集まった人たちは、世界に望む変化、ワンネスが素直に表現された世界を実現するため、自分自身がその在り方を選んだ人たちなのではないでしょうか。少なくとも僕はそうです。

ワンネスの世界、すべての生命が完全に調和し、平和に暮らしている社会。時間と空間という幻想を利用して、「達成する」という瞬間に立ち合うことを望み、生まれてきたのだと思っています。こんな世界がいいな、と望むからには、自分自身がまずはそうなること、それ以外に、世の中に変化を起こす方法はありません。

ニール・ドナルド・ウォルシュ著「明日の神」のなかで、ワンネスについて書かれた言葉があります。

「ワンネスが生命の特徴なのではない。生命がワンネスの特徴なのだ。」

僕はこの部分が、最もよくワンネスという概念を示しているように感じます。

実は、ワンネスとは、なにか特別な体験だったり、一部の人しか理解しえないような概念ではありません。

生きているということそれ自体が、ワンネスの表現です。息をしていること、意識を持っていること、人と関わり合うこと、人間に限らず、すべての生命と触れ合うこと。それらすべての一瞬一瞬が、既にワンネスの一部であり、ワンネスの表現です。生きているというそれ自体が、ワンネスであり、すべてつながっていることの証左です。いま、この文章を読んでいるあなたも、ワンネスの一部であり、ワンネスの中にいるということです。(おめでとうございます!)

そして今人類が経験したがっていることは、それをもっと素直に、もっとあるがままに、もっと本来の姿に近い形で、表現する、ということです。

本来私たちは、無条件の愛である神性の一部です。

それがきれいごとではない社会、それが自然な社会。

そんな集合意識を目指して、今日も明日も、行動していきたい、そしてそのためにいま、心からグローバルワンネスデーを祝いたいと思います!

Happy Oneness Day!

わたしたちは神、ではない

「全ては神である。」

これは、神との対話を読んだ多くの人の心に響いたメッセージのひとつであるのではないかと想像しています。

ワンネスという概念の基礎となる、とても重要な部分でもあります。

しかしこの言葉を、日本語としてより正確に表現するとするならば、

「すべてが神である」

となるのではないかと思っています。

すべて「が」神である、です。

「は」と「が」の助詞が一文字違うだけで、その意味するところが微妙に変わってくるのが、日本語の面白いところですが、まだ、少しわかりづらいかもしれません。ここで言いたいことは、全宇宙の総体、見えるもの・見えないもの含めた、すべての総和が神である、ということです。

神との対話にもある通り、部分としての神と、全体としての神の重要な違いは、その「サイズ」にあります。大きさの違いです。総体と、その総体をつくるひとつひとつの要素は、全く別の物である、ということです。

たとえば。

海岸に寄せる波を手ですくった後に、手のひらに残る海水は、海と同じ質のものかもしれませんが、海そのものではありません。当たり前のことかもしれませんが。海は津波を起こし、陸上の生き物に大きな影響を与えることができますが、手ですくったひとしずくの海水には、津波を起こす力はありません。

これは、総体としての神と、個体としての生命を考えるときについても、同じことが言えます。

すべて「が」神である、というのは要するに、すべてであるもの「のみが」神である、という意味です。【すべて】を神と呼ぶことができるが、一方で、そのすべての内の要素をつくっている【ひとつひとつ】は、神そのものではない、ということです。つまり、私たちひとりひとりは、神そのものではない、ということです。

なぜこのような、人によっては細かすぎると感じられる部分にこだわっているのかというと、ここが大きな誤解を生み出しやすい部分であり、さらに言えば、ワンネスではなく分離を生み出す原因にもなりかねないからです。

神との対話でも、「私は神だ!」と言って、ビルから飛び降りる男のエピソードがありましたね。

「私は神だ」という言葉が、一体ではなく分離を表現していることが、ここでのポイントになります。

神との対話のどの言葉でもそうですが、言葉だけを追ってしまうと、一体ではなく分離の言動を招いてしまうことが多々あります。これは、神との対話読者のみなさまにおかれましては、とくにご留意いただきたい部分でございます。

「すべては神である」という言葉も、一体の表現ではなく、他者との分離、もっと言えば、他者に対する優越の思考を生み出しているのであれば、それは本来のメッセージの意図とは全く異なる意味になってしまいます。

「神とひとつになること」にある通り、優越とは、人間の創り出したとても強力な幻想のひとつです。幻想の中にいるうちは、苦しみから抜け出ることは難しいでしょうし、自分だけではなく他者にも苦しみを与える可能性も生じます。

私たちのうちのひとりをとってみれば、当然、津波を起こす力はありません。

しかし、真に気持ちがひとつになり、全人類の善に資する思い(つまり愛)からくる集団的な行動は、津波を起こすことができる、かもしれません。

すべてが神である、とは、つまり、生命の総体・総和が神である、ということです。

「総和」と「部分」は、当然ですが、別のものです。質としては同じですが、持っている力は全く違います。ひとすくいの海水と、大海の持つ力が桁違いであることを想像すれば、人間ひとりの力が、総体としての神に比べてどれだけ小さいかは、推して知るべしです。

だからこそ、チームであることに意味があります。

お互いを思いやり、関わり合い、ともに成長していくことに、大きな意義が生まれます。

これはもちろん、ヒューマニティーチームに入りなさいと言いたいわけではなく、より多くの人が、それぞれの日々の生活における他者との関わりの中で、分離ではなく一体の、恐れではなく愛の表現であるために、神の「一部」として、謙虚さを持って、かつ、大きな喜びの中で生きてほしいという願いからくるものです。

神との対話の言葉が、日々の他者との関わりにおいて、分離や攻撃を生み出しているのであれば、目の前の相手ではなく、その言葉の方を捨てるべきです。言葉に頼ることは、大きな危険を伴います。大切にしすぎた言葉が、役に立つのではなくむしろ邪魔になる場面は生きていれば何度も遭遇することと思います。

ただひとつ、究極的な選択の場面で思い出すべき言葉があるとすれば、それは答えではなく問いなのかもしれません。

What would love do now?

「今、愛ならどうするだろうか?」

分離に終わりを告げる音

現代という時代ほど、分離と孤独の意識が蔓延している時代は、これまでになかったのではないでしょうか。

職場でも、家庭でも、地域コミュニティでも、多くの人があたたかい関係を築くことを望んでいますし、また、一般に思われている以上に、世の中の人々はそのような人とのつながりを大切にしようと努力しています。それにも関わらず、手に入れたと思ったら壊れてしまい、また新たな関係を築き、そして壊れる。その崩壊サイクルのスピードは増しているようにすら感じられます。

人との関わりにとどまらず、自然との乖離、地球との分離、環境の搾取・破壊も、留まる様子を見せるどころか、悪化の一途をたどるばかりです。

このような時代において、人々は、より新しい生き方を探し始めています。どうしたらもっと平和に、調和して、他者を搾取したり傷つけたり、無分別に命を奪ったりせずに、なおかつ、すべての人が心からしあわせに生きていけるのでしょうか。

他の生命との分離とは、究極的には神との分離、神性(Divinity)との分離、宇宙との分離と言ってもいいでしょう。そして、分離とは現実ではなく幻想であり、幻想とは私たちの意識、とくにこの社会的な経験においては、集合意識によって創られているものであると思います。

私たちの意識によって創られた幻想は、あらたな意識によって創り変えるしかありません。表面的な社会システム、経済や政治、軍事や教育などのシステムを変えることももちろん重要です。しかし、それらを創り出している真の原因は、「集合意識」であり、私たちHumanity’s Teamは、その根本原因にダイレクトにアプローチを試みます。それがもっとも効果的な解決方法であると信じています。集合意識とは当然私たちひとりひとりの意識の集合であり、私たちひとりひとり、すべての人類に、責任があります。責任を果たすとは、罪を背負うことでもなく、謝罪して解決される類のものでもありません。責任を果たすということは、現状と未来を変える能力があることを認め、そのための行動を起こすことです。

一体の意識、ワンネスの意識、古くからの言葉を使えば、「愛」のみが、この恐怖と分離に満ちた地球を癒せる可能性を持っています。この地球史上最大とも言える難局を、無関心ではなく思いやりで、排除するのではなく包み込むことで、悲しみではなく喜びとともに、私たち人類(Humanity)が乗り越えていけるということを、私は心から信じています。

自己紹介が遅れました、Humanity’s Team Japanのカントリーコーディネーター、要するに国の代表を務めています、出町陽平(でまちようへい)と申します。

このたびついに、HTJのブログを開設する運びとなりました!

2019年時点で本部は約16年ほど、Japanとしては15年ほどの歴史を持つHumanity’s Teamですが、ここまでつないできた足跡をつなげていきつつ、絵空事ではないワンネスを、この地球上に出現させたいという思いで活動しています。

このブログでは、私が普段思っていること、感じていることや、HT本部のこと、HTJのことなど、不定期ですが発信していく予定です。

Humanity’s Teamのいちチームメイトとして、今もこの地球を覆う分離意識に終わりを告げるためのエンディングテーマの一音符になることができるのであれば、それを超えるしあわせはありません。

地上世界にワンネスを。この目的のため今後も活動を続けていきますので、人類のみなさんといっしょに、前に進んでいければ思います!どうぞよろしくお願いします。